ふたりがまだ出来上がる前の設定です。
由香ちゃんが健気な感じ。
「うまそうだな、それ」
頭上から声をかけられて、鷲津は玉ねぎの天ぷらを挟んだ箸をとめた。
二人がけの狭いテーブルの向こう側に、当然のように西野がすべりこんで腰を下ろす。
六本木のオフィス街から離れた路地裏にあるこの小さな蕎麦屋は、昼時でも空いているのと、同業者に出くわすことが少ないという点で、鷲津の気にいりの店だった。
同じ業界で働いていながら、ほとんど顔をあわせることのないこの男と、こんな所で出くわすとは思ってもみなかった。
西野はお品書きを開きもせずに、鷲津の手元を興味深げにのぞき込んでいる。
温蕎麦の上に、野菜の天ぷらがたっぷりと乗せられてあった。
「それ、うまそうですね」
「ああ」
「なんて言うんです?」
「・・・・・・野菜おろし天蕎麦だ」
お品書きには店主のおすすめ、オリジナルメニューと書いてある。
といっても、温かい蕎麦に野菜の天ぷらと大根おろしが乗せてあるだけのものだ。
最近の鷲津は、この蕎麦を3回に1回は注文する。
一番のお気に入り、黒胡麻山菜蕎麦は、春の終わりとともに終了したからだ。
「いちおう野菜が食べられて、体にいいってわけですか」
「まあね」
「ここ、にしん蕎麦ひとつ」
水滴のついたコップを持ってきた中年の女性店員に、西野が声をかけた。
にしんを揚げるのに5分ほどお時間いただきますが、という言葉にも、いいよ、とうなずいている。
それから思い出したようにお品書きを手にとって、パラパラとめくり始めた。
てっきり同じものを注文するとばかり思っていた鷲津は、少し拍子抜けした。
こちらの怪訝な視線に気づいたのか、西野が顔を上げる。
「今の彼女に野菜死ぬほど食わされてますから、外では俺、好きなもの食べるんです」
意味ありげに伺う視線の西野に答えぬまま、鷲津は手元の野菜おろし天蕎麦に意識を戻した。
天ぷらの厚い衣も蕎麦も少しふやけていたが、食通でもなんでもない鷲津にとっては気にもならない。
てっとり早く栄養源が摂取できるのであれば、なんでもよいと思っている。
『伸びた蕎麦なんて、江戸っ子には邪道ですから』
ふいに彼女の声が、意識の底から甦った。
数日前の夜。
いつものごとく、鷲津が眠りにおちる少し前、控えめな時間に電話はかかってきた。
『鷲津さん?』
夜の静けさの向こう側から、遠慮がちに囁きかけてくるその声。
疲労しきった躰の指の先まで、染み渡るような。
電話ごしに伝わる親密な空気を壊さぬよう、ごく小さな声で『どうした?』と問いかけると、彼女はこんなことを言い出した。
『汁を吸ってふやけきった出前の蕎麦を、食べられるかどうか』
私は絶対に嫌です、と電話口で力む彼女の顔を想像して、鷲津は少し笑った。
それから『僕は気にならないな』、と正直に応えた。
どうしてそんな話題を彼女が切り出したのか、今となってははっきり思い出せない。
親しいどころか、友人とも呼びがたい由香との会話に、いつもこれといった中身があるわけではない。
思いついたように彼女がふってくる話に、自分はそのとき思いつく限りの返事をするだけだ。
それだけの単調なやりとりに、日によっては小一時間を費やすこともあるのだった。
結局たどりついた結論は、伸びた蕎麦は嫌だが、うどんならまあ許せる、だったか。
この前は、そんなところで落ちついたような気がするが、あらためて考えてみると不確かである。
「・・・・・・あんた、飯ちゃんと食ってます?」
突然、意識の外側から声をかけられ、鷲津はハッと目線を上げた。
その拍子に、箸から椎茸の天ぷらが転がり落ちる。
テーブルに落下したそれは、すかさず西野の胃袋の中に消えた。
「家帰ってから大変でしょ。 飯の支度とか洗濯とか」
「・・・別に。 不自由はしてない」
眉根を寄せて気遣う西野の言葉を、鷲津はあっさり否定する。
最近、顔をあわせれば持ち出されるこの手の話題に、鷲津はいささかうんざりしていた。
日替わりで女のところに転がり込む西野から見れば、三十男の独身生活など不健康ここに極まれり、なのだろう。
これまで何度も、西野に限らずこうして結婚を勧めるかのような話題をふられたことがある。
この年になって、意中の女性のひとりもいないなんて、云々。
しかし実際のところ、鷲津は今の生活に何の不自由も感じていないのだ。
食事も洗濯も掃除も、男一人の身の回りのことなど、たかが知れている。
西野や外野たちが思うほど、荒廃した生活は送っていない、はずだ。
あの静かなマンションの部屋に、自分以外の人間がいる。
鷲津にとってそれはかなわぬ夢であり、実感の伴わない、あまりに遠い情景なのだった。
味も素っ気もない返事を半ば予想していたように、西野は口元だけで笑った。
グラスの水を飲み干して、それからぽつりと呟く。
「じゃ俺、略奪していいスかね」
その冗談めかしながらも場違いな発言に、驚いて鷲津が顔をあげた。
いかにも西野らしいと思いつつ、そらすことなく彼の真剣な視線を受け止める。
かちあった視線は、西野のほうからすぐに居心地悪そうに反らされた。
思わず口に出た言葉らしく、本人もこの点は不覚だったらしい。
曲がった口元をくんだ指で隠したまま、西野は不機嫌そうに顎をしゃくった。
「ほら、早く食べないと蕎麦伸びますって。 そういうとこ、江戸っ子になりきれないなあ、鷲津さん」
「お待ちどうさまです」
奇妙なぎこちなさを帯びた空気を破るかのように、テーブルの中央に、油のはぜたにしんが置かれた。
それきり黙り込んだまま、蕎麦に専念し始めた西野をおいて、鷲津は先に店を出た。
ガラガラと軋む引き戸を開けると、とたんに梅雨晴れの眩しい光が視界を白く塗りつぶす。
薄暗い店内とはうってかわって、街は鮮やかな緑の光線に包まれている。
こうしている間にも、自分たちを取り巻く季節は着実に過ぎているのだ。
夏の気配さえ漂わせる空気に、空調に慣れた身体は一瞬ついていけなくなる。
ぼんやりと霞む頭の片隅で、鷲津はふと思った。
あのリクルートスタイルみたいな服では、さすがにもう暑いだろう、と。
「略奪していいスかね、か」
ふいに漏れた呟きをごまかすように、鷲津は小さな咳払いをひとつ、した。
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